アジア旅行記 1997年7月17日 トルコ(ディアルバクル~シャンルウルファ~ハラン)

旅日記

1997年7月17日(木) Diyarbakir ⇒ Şanlıurfa    晴れ

朝7時にDiyabakir sur(バス会社名)に行き、専用ワゴン車でオトガル(バスステーション)まで運んでもらう。7:30にバスは出発し、10時頃にはシャンルウルファに到着する。危険地帯を過ぎたのか、沿道のパスポートチェックは一度もなかった。

シャンルウルファのオトガルから、中心のツーリストインフォメーションオフィスまで2人100,000TL(約0.7USD)でサイドカー(バイクに荷台のようなものがついている)にて運んでもらう。

インフォメーションではいろいろと尋ねたかったが、インフォメーションの人の英語があまり通じず、いまいち何を言っているのかわからないが、ハラン(古代メソポタミア文明の都市遺跡)へのツアーはなく、タクシーをチャーターするか、または、国境のAKEAKELE行のバスを途中下車し、片道10km歩くしかないと言う。ちなみにインフォメーションでタクシーをチャーターすると3,500,000TL(トルコリラ)(約23.5USD)だそうだ。話だけ聞いて、ホテルを探しに行く。都合よく近くに安ホテル Hotel Doguが見つかった。2人シャワー付きで1,000,000TL(約6.7USD)。なかなか清潔な感じで気に入った。

ホテルの途中、ハランツアーが1人6USDと言うので聞いてみると、結局車をチャーターして行くので1人2,000,000TLだと言う。断ると1人10USD(約1,500,000TL)でどうだと言ってくるが、値段をごまかすところはやめた方が良い。断る。

ホテルの目の前のタクシー会社に値段を聞いてみると、チャーターは3,000,000TL(約20USD)だと言う。少し考えてこれに決める。運転手のめメフメット氏がなかなか感じの良いおじさんだったからというのも決め手となった。

ケバブとコーラを買って出発する。トルコ語がわからないと言うのに、メフメット氏はいろいろとトルコ語で話しかけてくる。だが、特に妻の方は、何となく理解しているのか、会話が弾んでいる。不思議なことだけど、結構言葉というものは、意味が分からなくても通じるもののようだ。

約45分ほどでハランに到着。48kmの道のり。このハランの遺跡は、紀元前5,000年より前から集落を作っていたと言う。本当に長い長い歴史のある場所だ。

メフメット氏が同行して片言の英語でいろいろと説明してくれる。人骨の破片や陶器の破片が散在している。このハランは、その昔バビロニアの西と北西を結ぶ拠点であったし、また、アナトリアと密接な商取引を行っていたアッシリアの商人の行き交う場所であった。紀元前2,000年頃になると、Asurに次いで、最も重要な中心地となった。ヒッタイトの王とミタンニ王国の王とが、この月の神殿にて、月神と太陽神の名において条約を結んだ場所である。

また、この都市はアッシリア時代から文化の中心的な存在で、特に預言者イブラヒムがここに滞在していたと言われ、また、彼はここで結婚したとも言われているそうだ。

イスラム教時代になってからは、ウマイヤ朝最後のカリフ、メルバン2世の時にその首都となったり、アイユーブ朝になってはその最盛期を迎えたのだそうだ。しかし、13世紀になるとモンゴルの襲来によってあえなく壊滅。2度と以前の姿を取り戻すことなく、シャンルウルファにとって代わられ、現在に至るということだ。

このハランでひときわ目をひくのはウルジャミィ(大モスク)で、744年~750年に、ウマイヤ朝のカリフ、メルバン2世によって建立されたものだそうだが、その巨大なミナレットや僅かに形を留めているモスクなどによって、当時のこのモスクの重要性とすばらしさがわかる。

ここは神学校としても使われたようで、メフメット氏はイスラムの大学と言っていた。ここでメフメットの知り合いのミタットに出会う。35才でテレコムの職員だそうだが、遺跡が好きで、ここで時間を過ごしていたらしい。青や緑色の陶器の破片をもらう。たくさん出てくるらしい。なかなか面白い人だった。アラビア語で僕の名前、妻の名前、日本等を書いてくれた。しかしアラビア文字というのは、表音文字なのだろうか、表意文字なのだろうか? 彼はスズキのバイクに乗っていると自慢していた。また、テレビでドラマ“将軍”をやっているらしく、“アンジンさん”とか、“ショウグン”とか言っていた。

ハラン遺跡のまわりにはハランの集落があり、はっきり言って、ハランの遺跡よりも面白い。とんがり帽子の日干し煉瓦の家が続く。部屋ごとにとんがり帽子となっている。遠くから見ると、とんがり帽子がたくさんあって面白い眺めだ。

家の中に入ると、乾燥しているせいかひんやりとし、なかなか快適な感じだ。このタイプの家は、シリアや遠くイタリアのシシリアあたりでも見られるそうだ。ここでは、ターバンをつけさせてもらって写真撮影させてもらう。このハランやシャンルウルファでは、ターバンを巻いた人をあちこちで見かけ、シリアは近いのだな、もうアラブの世界の入口に居るのだなと実感する。(一般的にトルコは服装などに宗教の影響が少ない。トルコ初代大統領の国父アタチュルクによる政教分離政策によるものか。)女性は顔に入れ墨をしたり、服も他のトルコと違った民族衣装を着ていて面白い。

14時頃にハランを後にする。ハランからシャンルウルファまでは、一大農業地帯となっている。この乾燥地帯に大規模に水を引いて(1995年に完成したそうだ。)、水が地域一帯に行きわたるように工夫されている。水が青白く見えるのは、石灰分が混じっているのだろうか。見渡す限りの平地が畑になっている。メフメット氏に連れられ、地元の農家の家に行く。彼らは唐辛子やスイカ、また綿花などを栽培していた。それにしても広大な土地に農作物を作っているのに驚く。

メフメット氏には、ウルフ城で降ろしてもらい別れる。城に向かおうとしたら、イラン人に声をかけられた。片言の日本語を話し、日本の新宿や日暮里あたりで1年間働いていたという。日本人は親切でとても好きなのだそうだ。イラン人というのはこんなにでかいものかと思うほどの巨体に満面の笑顔を浮かべた。彼は日本で一生懸命働いたお金で、イランに戻りバスを買い、イランからシリアまでのバスを運転して稼いているのだそうだ。

バスの中でジュースをごちそうになる。巨体に似合わず、バスの内装はかわいらしくしてあった。しばらく話をする。ヤクザは友達だと言う。そっちとのつながりは深いのだろうが、とても良くしてもらったのだそうだ。楽しいひと時だった。イラン人はよく巡礼ツアーをやっていると言うが、これがまさにそうなのだろう。このウルファにはイブラハムの生誕の地がある。ここに来て、あとはガジアンテップ、アンタクヤを越えてシリアに行くのだろう。このイラン人はとても優しい人で、シリアに行くなら是非このバスに乗って行けと言ってくれた。まだ予定があるのでそうもいかず、写真を撮って後で送ってあげることにする。

城は急なトンネルを登って息が上がったが、景色はとても素晴らしいものだった。イブラヒム生誕の洞窟や、聖なる魚の池公園に行った。バラが手入れされていて、とてもきれいだった。また、聖なる魚とは、日本の川にもいる灰色の鯉のようだった。また、この池に立つ1716年建造のモスクが非常に美しく眺め入ってしまう。

その後、バザールを通ってホテルへと向かう。観光地にしても、バザールにしても、このウルファはとても人が良い。我々日本人に好奇心はあるのだが全然しつこくなく、笑顔がとても人懐っこく、歩いていてもとても気分が良い。親や社会の躾が厳しいのだろう。子どもも感じが良い。聖地だということで、イスラムの教えが浸透しているのだろう。トルコの中でも一番人が良いのではないだろうか。

ウルジャミィに行くと、子どもがアラビア語とコーランを学んでいた。厳しく教えていた先生が、モスクを親切に案内してくれた。トルコで一番細長いモスクなのだそうだ。

明日のかカフタ行きのバスの時間を調べた後、タクシー会社の前を通るとメフメットがいてチャイをごちそうしてくれる。ちなみに彼は52才で7人の子持ち(男6人、女1人)だそうだ。良いLokanta(食堂)はないかと訊くと、なんとタクシーでそこまで連れていってくれた。もちろん無料。教えてくれたロカンタも最高に美味しかった。

ホテルに帰ると、またも親切な人がいた。彼は部屋までウルファの観光パンフを持ってきてくれて、わからないことがあれば是非訊ねてくれと部屋番号まで教えてくれた。本当に良い人が多い。シリアはこんな感じなのだろうか? 少し期待する。

本日の支出 約19.7USD

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