戦国キリシタンと天草・島原の乱 

戦国時代、織田信長が力を持ち得た背景にイエズス会の影が見え隠れする。当時、トルデシリャス条約とサラゴサ条約で地球を二分したスペインとポルトガルだが、ポルトガルの保護を受けたイエズス会は、明を最大のキリスト教布教のターゲットとしていた。ただ、明は強大な勢力を持っており、遠方にあるポルトガルだけでは目的達成は難しかった。目的達成のためには、足がかりとなる国が必要であり、白羽の矢が立ったのは戦国時代の只中にあり、戦争に明け暮れていた日本だったというわけだ。

その日本に、イエズス会は目的達成ための強力な協力者が必要だった。最初に日本に来たフランシスコ・ザビエルは、薩摩から平戸、周防山口、そして京に向かう前に堺を訪れている。その堺で豪商の日比屋了珪の知遇を得、その紹介で同じく堺の豪商で小西行長の父、小西隆佐の歓待を受けている。

イエズス会は、九州では大友宗麟等の武将に庇護を受けたが、畿内では、織田信長より前の天下人と言われる三好長慶に庇護されている。当時はキリスト教がもたらす世界最新の武器や技術が天下を分ける大きな要素だったため、多くの野心ある武将たちはこぞってイエズス会を受け入れ、その見返りとして武器弾薬等を手にした。

堺の豪商たちは、その仲介でいち早く大きな影響力を持っていた。イエズス会は堺の豪商たちを通じて武将をコントロールしようとした。イエズス会はそのような中で織田信長を協力者にしようと思ったのではないか。

桶狭間の戦いは奇襲ではなかった。桶狭間の狭い谷での決戦は、当時の一般的な槍よりもはるかに長い長槍で槍衾をつくり敵の接近を防ぎ、その間に弾をこめた鉄砲隊が前に出て一斉射撃をする。その繰り返しで、今川方の兵隊は圧倒されたようだ。この戦い方は、当時最強を誇っていたスペインのテルシオという戦法だ。桶狭間の時点で、信長は長槍と鉄砲を効率的に使うスペインの戦法を知っており、武器弾薬の調達から、戦法や石垣を使った築城法、イエズス会を通じて技術から知識まで幅広く取り入れていたと思われる。だからこそ織田信長は天下をとれたのだと思う。

その信長を支えた堺の豪商たち。商談を進めるには、イエズス会の意思と武将がキリスト教を保護する姿勢が絶対的に必要であり、その密談の場所として、茶の湯が発展したのだと思う。千利休はじめ、利休の七哲と言われる人たちは、キリシタンかキリシタンの有力な保護者だ。茶の湯はいわば秘密結社的な役割を果たしていたのだろう。

七哲のひとりに古田織部がいる。以前織部流の茶道の体験に参加したことがある。茶道でのお茶の回し飲みは、キリスト教のミサでの聖杯の回し飲みが原型にあることは有名な話だが、織部流の師匠の話によると、高山右近などは、茶室を礼拝堂として使用していたそうだ。千利休が政治的な力を得たのも、武将たちがこぞって茶の湯を愛好したのも、その中に入れてもらえないと武器弾薬の商談ができず、武将たちにとっては死活問題だったからだと思うと納得がいく。

イエズス会は織田信長を協力者にして、信長が天下をとった暁には、その時代世界最強とも言われた日本の軍事力を使って朝鮮経由で明に攻め入ろうと考えていたとの説があるが、武将たちの軍事行動をポルトガルの艦船が援護することで明の征服を画策していたのだ。しかし、信長はイエズス会の策略を利用していたのかもしれない。そしてイエズス会と信長の蜜月は終わりを迎える。信長は自らを神格化し、イエズス会を刺激する。

1581年、巡察師ヴァリニャーノは安土城で信長に歓待されている。巡察師というのはイエズス会の中でも相当高い役職のようだが、この人は1579年~1582年まで日本に滞在している。イエズス会は、日本布教にあたり、日本の習慣や文化に最大限配慮することで日本の権力者たちに受け入れられているのだが、スペイン系のフランシスコ会やドミニコ会は自分たちの方針をくずさず日本布教を考えており、ヴァリニャーノは日本からスペイン系の布教を排除しようとして対立している。

スペイン系のフランシスコ会やドミニク会は率先して南米の征服に貢献してきたのだが、アステカやマヤ、インカ文明を徹底的に征服する流れの中で、征服者としての聖職者を経験しており、彼らの布教のスタイルが高圧的なものだったことは想像に難くない。

また、ヴァリリャーノが日本に居る1580年に、ポルトガルはスペイン王室に併合された。このような世界情勢がイエズス会の布教活動に影響を及ぼしているのではないかと思うのだが、1582年に信長は自らを神格化し、意図的にイエズス会の不興を買ったように見える。そして同じ年に本能寺の変が起こり、信長は殺されてしまう。

次の天下人は秀吉だが、秀吉はイエズス会から信長の後継者として本能寺の変のことを事前に知らされていたとする説がある。だから中国大返しのような神業が可能だった。イエズス会は、何がしかの手段を講じ、自らを神格化し密約を反故にした信長を粛正し、次の協力者として秀吉と密約を結んだのだ。

秀吉はその後天下をとり、1587年に伴天連追放令を出しているのだが、伴天連追放令を出す前にイエズス会に対してポルトガルの艦船を出すように求めて断られている。信長とイエズス会の密約を秀吉が引き継いでいることを想像させる話だ。1585年頃からスペイン(ポルトガル併合)はイギリスと戦争を行っており、伴天連追放令が出される1年後の1588年には、無敵艦隊アルマダが壊滅的な敗戦を喫している。秀吉が要求した頃には、艦船を日本に送ることは実際に不可能な状態だったのだ。

イエズス会との密約を踏まえ、朝鮮から明へと攻め上ろうという野望を持った秀吉は、艦船の要求を実現できないイエズス会に対し怒りを募らせたのではないだろうか。それが伴天連追放令の根幹にあるのではないかと思う。

結局秀吉は1592年に文禄の役を起こし、朝鮮半島に派兵した。これは秀吉の老害ではなく、信長の密約の延長線上にあると思っている。信長はイエズス会の思惑に乗らなかったが、秀吉はその野望を自分の野望と重ね合わせて実行してしまったのではないだろうか。

時代は下り、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いへと突き進む。関ヶ原の戦いの間九州に居た黒田官兵衛(洗礼名ドン・シメオン)は、関ヶ原後の天下統一を模索していたとの説がある。当時日本には70万人とも言われるキリシタンが居て、その1割でも7万人に上る兵力を結集して関ヶ原の勝者に宣戦することを考えていたという。

加藤清正はキリシタンではないが、黒田官兵衛と近い関係にあり、協力者であったようだ。加藤清正は言わずと知れた熊本城の築城者である。名古屋城や大阪城にも引けを取らないほど強大な城を、天下人でもない一大名の加藤清正が築城し得たのか? そしてその城に昭君の間があるのか? 

熊本城の築城資金については、加藤清正が長崎の商人末次平蔵を通じてスペインの植民地だったフィリピンに麦を大量に輸出して得た富がその原資のようだ。キリシタンではなかったようだが、加藤清正が着ていた西欧風のシャツなどが残されており、南蛮との関係は良好だったようだ。

黒田官兵衛のキリシタンによる天下統一の策略を物語るものとして、熊本城の昭君の間がある。加藤清正が豊臣秀頼を迎え入れるために作った部屋だと言われている。まさに将軍の間なのだ。ところが昭君の間は熊本城だけではない。豊後の竹田の西光寺にもあるそうだ。他にもあるかも知れない。

官兵衛は、関ヶ原の戦いが長引いた場合、秀頼を海路で豊後まで連れて行き、豊後街道経由で熊本城に匿おうとしていたのではないか。秀頼を旗頭にキリシタンシンパを中心とした一大勢力を形成し、天下を狙ったのではないか。

しかしながら、関ヶ原の戦いはあっという間に終わり、徳川勢は勢力を温存したことにより、情勢を見た官兵衛は機会を失った。

その後、徳川の世になり、家康はスペインとの貿易を熱望し、フィリピンのスペイン総督に対し何度もコンタクトを取っているようだが、宗教抜きの関係は難しく、新興のオランダ勢との関係に移っていく。徳川の禁教は厳しく、キリスト教は捨て去られていく。キリシタンシンパだった大名たちも、記録を改ざんし、キリスト教との関係は一切なかったものとして歴史を書き換えた。

そして天草・島原の乱で終焉を迎える。小西行長が熊本の南半分を治めていたころ、小西行長自らをはじめ、織田信長を支えていた堺の豪商の子孫たちが小西行長の家臣として熊本入りしている。

ザビエルと親交のあった日比屋了珪の子、日比屋了荷は志岐城代となり、天草にコンフラリア(キリシタンの信心会)を組織していく。天草・島原の乱ではこの組織が大きな役割を果たしていくことになる。了荷以外にも、信長を支えたと思われる大物たちの子息などが天草に大きな影響を与えている。

また、武将では、三好長慶や松永久秀らに仕え、高山右近の父、友照らと共に洗礼を受けた畿内で最も古いキリシタン武将の結城忠正は、畿内のキリシタンの有力な庇護者であったが、その甥の結城弥平次は小西行長に従い、熊本の矢部にあった愛藤城の城代となり、熱心なキリシタン武将としてキリスト教を広めている。

小西行長と共に熊本入りした日本有数のキリシタン庇護者である家臣たちが天草に残した宗教的意義は計り知れず、天草・島原の乱に多大な影響を及ぼしているようだ。

天草・島原の乱が必ずしもキリシタンだけの反乱というわけでなく、悪政により抑圧された農民反乱の側面も強いのだが、この戦いは、ザビエルに始まったキリスト教勢力の最後の残り火がはじけた戦乱だったのだと思う。

原城に籠城したキリシタン勢力は、最後までポルトガル船が救出に来てくれると信じていた。それは、日比屋了荷など、日本キリスト教の黎明期から重要な役割を果たした小西行長の家臣たちが、天草の人達に語り継いだ密約の中のポルトガル艦船の幻影であり、最後の希望だったのではないだろうか。

それを知ってか、幕府はオランダ船からの砲弾を原城に打ち込む。外国船から打ち込まれた砲弾がキリシタン勢の最後の希望を粉々に打ち砕いたのは想像に難くない。絶望しかなかっただろう。

そして幕府側は、原城の反乱勢力3万7千人をことごとく殺戮してこの戦いを終結した。一人たりと容赦しなかった姿勢から、キリシタン勢力への強い恐怖と大きな危機感が見える。

戦国時代から安土・桃山時代、江戸時代初期に至るまでの日本は、スペイン・ポルトガルをはじめ、アジアの国々と盛大に貿易を行い、外に向けて開かれたダイナミックな時代だった。そして天草・島原の乱でその終焉を迎えたのだ。

時代はさらに下り、1840年アヘン戦争、ポルトガルではなくイギリスが清に対して艦砲射撃の雨を降らせた。ポルトガル、スペイン、豊臣秀吉などが思い描いた姿が重なって見える。

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