道元と瀬戸焼と肥後川尻の地

加藤四郎左衛門景正。通称 藤四郎。号は春慶。

瀬戸焼の開祖だ。先日博物館で室町時代の茶道具を見て思い出したのだが、数年程前に熊本市の図書館で川尻町史(川尻は熊本市南区にある地名)をパラパラと読んでいた時に発見した一文が興味深かった。

加藤景正は宋で作陶を学んだのだが、帰国する時、乗っていた船が暴風に遭遇したため流されて、安貞元年(1228年)、当時国際港だった熊本の川尻港にたどり着いている。曹洞宗の開祖道元禅師もその時一緒の船に乗っていた。

川尻町史によると、藤四郎はこの土地に到着するとすぐに、唐土から持ってきた土で小壺3個を造り、ひとつを北条時頼に、ひとつを道元禅師に贈呈したのだそうだ。この小壺は藤四郎の唐物の茶入と言い、後世、とても貴重なものとされたという。

この藤四郎、しばらくの間、この川尻の土地で作陶に励んだ後、良土を求めて各地を歴遊したのだそうだが、最終的に尾張国春日井郡瀬戸村に良土を得て窯を開いたのが瀬戸焼の始まりとなった。

後の茶人により、藤四郎が宋から持ち帰った土で作ったものを唐物、瀬戸の土を用いたものを古瀬戸と云われるようになったのだそうだ。

景正が川尻の土地で作陶をした窯跡と思われるものが昭和9年の白川補給水路工事の折に見つかっている。地下三尺余のところに多くの青磁の破片が発見され、その中には見事な青磁の破片数十個が含まれており、これは皆宋焼の破片と言われている。当時既にこの地に陶器を焼く窯があったことが証明されたことで、景正が作陶を行っていたと考えられるようになった。(川尻町史の43ページに窯跡の地図が載っている)

この加藤景正は、現代の瀬戸、美濃界隈では陶工の本家の陶祖として語り継がれている伝説的な人物だ。道元禅師と加藤景正、それぞれの世界のパイオニアである二人が、宋からの帰朝時にそろって肥後の川尻の地に足跡を記したというのがとても興味深い。

川尻の地には弘安元年(1278年)道元に参禅した順徳天皇の皇子寒厳義尹により大慈禅寺が建てられ今に至る。この寺は昭和を代表する禅僧澤木興道禅師も滞在した寺で、九州の曹洞宗の本山となっている。

歴史を見ていくと、その土地が急に興味深い土地に思えることがある。

ちなみに、川尻は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた史上最強と言われる柔道家の木村政彦氏の生地でもある。

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