アジア旅行記 1997年8月12日 ヨルダン(アンマン)

旅日記

1997年8月12日(火) Amman  晴れ

朝からビザの延長のため、セルビスにて内務省に行く。ここがもの凄く混雑していてわかりにくい。申請用紙に記入しなくてはいけないのだが、アラビア語で書いてあるため意味不明。人に聞き聞き記入する。なかなか面倒くさいものだ。いろいろと面倒くさいことをして窓口に書類を持って行くと、日本人は”Directorate foreigner and borders”に行けと言う。そちらですぐに手続きができるという。内務省はあくまでアラブ人と特殊ビザの人が手続きする場所なのだそうだ。タクシーで”Directorate foreigner and borders”に向かうことにする。到着して尋ねると、日本人だったらPolice stationに行けと言われる。この”Directorate foreigner and borders”は2度目の3ヶ月延長の手続きをする場所だと言う。またタクシーに乗ってポリスステーションへ。ここで、ほんの2~3分ほどで3ヶ月延長ビザをとることができた。ホテルの情報ノート(ホテルの情報ノートとは、バックパッカー等の旅人が多いホテルにはだいたい置いてあるノートで、誰でも書き込めるようになっており、各地の情報を仕入れるためのとても重要な情報ツール)で調べて行ったのだが、とんでもない無駄足を踏むことになった。

ポリスステーションから、またタクシーでダウンタウンに戻り、両替をした後、今日のお昼はJabryレストランのマンサフ(羊や鶏肉をヨーグルトで煮込んだヨルダンの料理)を食べに行った。羊のマンサフで、ボリューム、味共に素晴らしかった。しかし、羊の肉塊は日本人にはかなりヘビーなのではないかと思う。ヨーグルトもカイロレストランのものより遥かに上だった。コーラを頼んで全部で3.5USD程度で安い。しかし、このマンサフは僕の大好物のひとつになっている。ただただ美味しい。

一度ホテルに戻り昼寝をする。夕方から散歩に出かける。バッグを買ったり、古着屋に行ったりする。古着屋の主人はパレスチナ人で、イスラエルで生まれたそうだが、軍事衝突等によりドイツに逃れ住んでいたそうだ。今はヨルダンで、ヨルダンのパレスチナ人として生活しているが、ヨルダン人とパレスチナ人では生活の条件が違い、パレスチナ人は2級市民として、何の社会保障もないのだそうだ。昔、ヨルダン人から軍事弾圧されたことがあるらしく、ヨルダン人に対してもあまりよく思っていないようだ。ヨルダンには20%のヨルダン人と80%のパレスチナ人が住んでおり、ヨルダンは複雑な顔を持っている。昨日のヨルダン人は国王を尊敬していたが、ここのご主人は国王を嫌っていた。

今日両替をした両替屋に、イスラエル通貨のレートを聞いてみたら、イスラエルは嫌いだからそんなもの知らないと言っていた。両替屋の壁には、“アラブ人のロバをヒッチハイクしたユダヤ人が、そのヒッチハイクしたロバを奪い、慌てて追いかけたアラブ人が、ユダヤ人の乗ったロバを捕まえてさえ、そのイスラエル人はひるみもせずにロバにしがみついている”姿が描かれていた。ユダヤ人がイスラエルの土地に入植した際、そこに住んでいたアラブ人たちはユダヤ人を受け入れて共存していた。しかし、そのうちユダヤ人たちは、そこが自分たちの土地だと主張し、アラブ人たちを弾圧して土地を占領していった。そんなことを皮肉っている絵だった。明日からイスラエルに入る。どういう旅になるのだろう。

ヨルダンはイスラム教国なので、アルコールは大っぴらには飲めない。アルコールを売ってはいるが、目立たない小さな店で申し訳なさそうに売っている。アルコールを買っても、それを紙袋に入れて酒だとわからないようにして持って帰らなければいけない。そんな国なので、それに代わる楽しみはスウィーツ類になるようだ。男たちもお菓子が大好きだ。お菓子屋でハビーバを食べる。チーズを基調にしたお菓子で、甘くてとても美味しい。シリアのトリポリのお菓子よりもはるかに美味しく感じる。ハビーバも病みつきにあるほど美味しい。

夕食はまたカイロレストランで食べる。帰りに、ダマスカスで出会った、ひょろっとしてにこにこした日本人に再会した。エルサレムから戻ってきたのだそうだ。ホテルの外のテーブルでテライさんやカワノさんと話をして、明日の準備にとりかかる。

本日の支出 約21.1USD

コメント

タイトルとURLをコピーしました