1997年8月19日(火) Jerusalem 晴れ
朝、ヤッフォ門のところから20番のバスに乗り、ヤドバシェム(Yad Vashem)博物館に行く。ここは、ナチスに殺された600万人のユダヤ人たちを慰霊する目的で建てられた博物館だ。いろいろな館に分かれているが、メインは歴史館だ。ユダヤ人がナチスの台頭により虐げられ始める頃から、解放、そしてイスラエル建国までの歴史が写真と解説により綴られている。初めはユダヤ人の要職(弁護士、医師、他)からの追放。ユダヤ人ビジネスに対する不買運動。学校でのユダヤ人いじめ等だったが、ゲットーへの隔離、強制労働、虐殺、ガス室へとエスカレートしていく過程が展示されてあった。最初の方は、黒板に書かれた、“ユダヤはドイツの真の敵だ”という文字の前に立たされるユダヤ人の子どもの写真や、ドイツ人が、“ユダヤ人のものは買わないで”と不買運動を煽るプラカードを持って立っている写真などが展示されている。また、カップルか夫婦かわからないが、ドイツ人女性とユダヤ人男性の首に、“ユダヤと寝た町一番のブタ”というようなプラカードをぶら下げてさらし者にしている写真等があった。
それから、ヒトラーの写真もあるが、彼は美術を志していたためか、ドイツが大帝国であると人々に思わせる舞台演出に長けていたことが読み取れる。大観衆を前に、ハーゲンクロイツ(鉤十字)の旗が整然と並び、ホールの後ろにも同様に翻っている。兵隊の軍服は見た目がかっこよくデザインされていて、それらがきびきびと動く中を、ヒトラーが取り巻きを引き連れて、悠然と中央を歩いていく。今にも群衆の熱狂が伝わってくる。第一次世界大戦後、落ちぶれ果てたドイツで、誰もがこの演出にドイツの未来を信じ、熱狂して行ったのだろう。
ユダヤ人への嫌がらせは日に日にエスカレートしていき、ポーランド出身のユダヤ人を、ポーランドへ強制送還するに至り、国境まで行ったユダヤ人たちをポーランド政府が拒否。彼らがどうにもできない状況の中で、その中のユダヤ人を親に持つフランスに居た17歳の少年が、パリのドイツ大使館で大使を射殺してしまう。このことが、ドイツ人によるユダヤ虐待に拍車をかけてしまう。ユダヤ人たちは追われ、ゲットーの中に閉じ込められる。特にワルシャワ等は、当時の人口の3分の1がユダヤ人とされており、そのうえ他の土地からの多くのユダヤ人たちを合わせて、ワルシャワのほんの2~3%の土地に閉じ込められてしまう。その数、40万人から50万人にものぼっている。
食糧は途絶え、疫病は蔓延し、85,000人のユダヤ人が死んでいる。ユダヤ人たちは、この出来事が最悪の事態だと思ったのだろうが、これに終わらず、強制労働、強制収容、そして虐殺へとエスカレートしていく。当時、ユダヤ人は、ヨーロッパ、ソビエト、北アフリカ、その他に広く分布していたが、ドイツが領有した北アフリカ等からもどんどんドイツやポーランドにあった強制収容所に送り込まれた。戦前、ドイツのユダヤ人は50万人である。それが、東欧等を含めて、600万人ものユダヤ人が殺されたのである。それも、銃殺などの手のかかる処刑から、機械的に殺していくガス室までエスカレートしていく。この感覚が麻痺した状態は何なのだろうか?ユダヤ人たちは同じユニフォームを着せられ、黄色の星型ワッペンを付けられている。ガス室に送られた人たち、オーブンで生きたまま焼かれた人たちはどのような気持ちで死んでいったのだろうか。いくら戦争は狂気と言っても、これは狂気どころの話ではない。ナチスは、ドイツ人の士気を高めるためにユダヤ人をスケープゴートにし、また、彼らの財産を没収し、戦費に充てた。普通はそれで充分に国家的な目的を達成していると思われるのに、第2次世界大戦のさ中、敵の連合軍に対するよりも遥かな情熱を持ってユダヤ人たちを根絶しようしているのはなぜなのか? 何かに取りつかれたようにユダヤ人を殺していく姿に背筋が寒くなった。
だがユダヤ人解放の後、ユダヤ人はパレスチナに乗り込み、そこに独立国を建国してしまった。今度はユダヤ人がパレスチナ人に対してひどいことをしている。世の中は繰り返すのか。
悪い連鎖は繰り返す。歴史は繰り返す。
バスに乗って、ヤッフォ通りに行く。アメックスに行く予定だったが、爆弾が仕掛けられているという通報があったのか、道路を封鎖して警察と消防が事に当たっていた。それでバスを降りるはめになり、その様子をしばらく眺めていた。アメックス事務所で、ドル札をトラベラーズチェックにしてもらう。
それから、イスラムアート美術館に行くが、9月までクローズだと言う。それでまた戻り、メアシェリームに行く。ヤッフォ通りの北側にあるこの通りには敬虔なユダヤ教徒が住んでおり、町ゆく人すべてが黒ずくめで、女性もターバンのような帽子を被っている人が多い。とにかく、どこを見ても敬虔なユダヤ教徒だらけだ。ここに来ると、さすがにイスラエルに居るのだなと実感する。

夜はニューヨークに本拠のスパロというイタリア料理屋でピザを食べる。この新市街のヤッフォ通りあたりは、夜とても賑やかな繁華街だ。様々な店が軒を連ね、しゃれたレストランやバーが並び、人々が夜の散歩を楽しんでいる。歩いていたら、ジャズの演奏をやっていたので、ビールを一杯飲みながら演奏を聴く。今夜は11時頃まで出歩く。

民兵なのだろうか。普段着なのに肩から銃をかけて歩く若者たち。常に戦闘状態が続いているような状況なので、こんないでたちで歩いている若者がたくさんいる。若い女性も肩から銃をぶら下げてウインドウショッピングをしていた。

ホテルに帰ると、真っ先にホテル代を払えと言ってくる。そして、干していた妻の服がなくなっていた。誰かが勝手に盗ったのだろう。まったく人の迷惑を考えない連中がいるものだ。
本日の支出 約31.6USD


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