いろいろと本を読んでいると、信長と天正遣欧少年使節との関係が気になる。
問題は1581年の9月だ。9月に信長にイエズス会の巡察使バリニャーノ(イタリア人)が2度目の謁見をしているが、この時以降急に降って湧いたように遣欧使節の話が動き出している。またこの時に使節団がローマ教皇に渡した安土城の金屏風をバリニャーノに託している。
バリニャーノが慌ただしく人選を進める中、最初信長のお膝元安土のセミナリオに留学中だった伊東ジェロニモが候補になっていた。この人は信長の名代となるはずだったようで、もし参加していたら、使節派遣者に、九州のキリシタン大名、大友氏、大村氏、有馬氏の三氏と共に、信長も名前を連ねることになっていたようだ。
バリニャーノが三氏に対して遣欧使節団を出したいと願い出た時、三氏それぞれから“何故そんなことをする必要があるのか”と怪訝がられたと書いてある。このことを考えると、遣欧使節団派遣は九州のキリシタン大名たちから出た話ではなく、バリニャーノが画策したか、信長の意向だったか、この二択になるように思う。またはお互いの思惑が一致したか。
9月に始まったこのたいそうな計画は、わずか5ヶ月後の1582年2月には長崎港を出発し、ヨーロッパを目指している。
その4ヶ月後に本能寺の変が起きて信長が暗殺された。そして秀吉の世となり、時を経てイエズス会の野望が秀吉の野望に移り変わり、朝鮮半島を足がかりとした明への軍事侵攻が始まる。
一連の動きは、ひとつの線としてつながっているに違いない。
たかが九州のキリシタン大名たちが送った使節団に対して、当時のヨーロッパが、ローマ教皇を含めて信じられないような厚遇をしていることを考えると、首謀者は信長であり、何か画策していたのは間違いないように思える。その裏には、何か壮大な計画があったのではないだろうか?

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