ヴィパッサナー瞑想に参加して

ヴィパッサナーの瞑想コースに参加した。ヴィパッサナー瞑想とはミャンマーに伝えられたブッダの教えだ。ブッダの教えは、瞑想を通じて悟りに至る方法となるが、自分で修行して悟ることが必要だ。その悟りに至る瞑想の方法が、ひとりひとり実践する形で伝えられている。基本的に、ブッダの教えは自力救済なのだ。

しかしながら日本の大乗仏教は、他力救済的になる。聖徳太子の時代から鎮護国家のための仏教、浄土思想による他力救済等、ブッダが言ったことからはかけ離れたものになっているように思う。これは仏教が、インドから中国を経て大乗仏教になる過程において、シルクロードを経由して伝わった西方のキリスト教的な天国思想が大きく影響を与えていると思われる。浄土的な考え方は、キリスト教的と言っても過言ではないのではないかと思う。また、土着宗教との結びつきも強く、ブッダの教えからは明らかに違うものになっているのではないかとも思う。それはそれとして良いとか悪いとかいう話ではないのだが。

そのような中で、道元の禅はブッダの教えの本質に近いのではないかと思う。“色即是空 空即是色”“諸行無常”“不立文字”などはその本質はヴィパッサナー瞑想と共通するものがある。また、禅は自己救済的であり、自身の座禅修行が悟りの根本にあると思える。日本に伝わる仏教の中で、一番オリジナルなブッダの教えに近いのかも知れないと思う。しかしながら、禅宗の教えは、わかりにくい。当然頭でわかるものではなく、自己が悟ったというその経験がないと理解できないし、他人がその体験を経ずに理解できるものではないので、不可解な禅的表現になるのだろう。

ヴィパッサナー瞑想には、より多くの人に伝わるように教えるためのメソッドが体系的に伝わっているように思う。禅と似ているが、禅よりもはるかに悟りの本質をイメージしやすくなっている。

11月中旬から下旬にかけて、千葉にあるセンターの10日間のコースに参加したのだが、これが自身2回目の参加となった。初めての参加は、30年近く前にネパールのカトマンドゥ近郊の瞑想センターだった。30年近い年月が経過したが、その時のことは以前ブログに書いた。

瞑想と禅僧 | 歴史散歩と旅とJazz

瞑想センターでは朝4時に起床し、4時半から瞑想。朝食と昼食、そして夕方のティータイム以外はほとんど1日中60㎝×60㎝の座布団の上で瞑想をする生活。1日中瞑想をして過ごすのだ。就寝は夜の9時。最初の頃は、足とお尻の痛みが凄まじく、10日間も絶対にもたないだろうと思った。その苦痛は大変なものだった。しかし、3日目の夜に全身の関節が熱を持ち、もう続行は無理かと思って寝たら、次の日には痛みがかなり消えていた。その日を境に、足の痛みに悶える瞑想から、次第に瞑想に集中できるようになってきた。

参加者はたくさんいるが、期間中はアイコンタクトのようなコミュニケーションでさえ禁じられている完全な無言の行で、1日中瞑想で目を閉じているせいか、寝る時に目をつむると、天井にレースのような模様が描き出された。イスラムの複雑な模様のような、インドネシアあたりの木彫にある花や木々のレリーフのような。きれいだなと思い目をあけると真っ暗な天井に変わる。また、最初の数日間は悪夢しか見なかった。しかし、そんなことも次第になくなり、なんとか10日間続けられるのではないかと言う気持ちになった。

60年生きてきて、身も心もサンカーラまみれになり、雑念ばかりでなかなか集中できない状態でもあった。次から次に、忘れていた子供の頃の記憶などがくっきりとっとしたイメージとなって頭をよぎったりする。自分自身と向き合うしかないこの時間と空間の中で、60年間の人生を見つめなおすことはできたのかも知れない。

しかし雑念とは、次から次に湧いては消えるものだ。そこに執着してはいけないのだが、やはり集中状態を離れて、意識はどんどん軌道を外れてしまう。集中できないと時間が凄まじく長く感じ、足の痛みや体の痛みが出てくる。

10日間の無言の行。10日間の瞑想修行。定年退職し、農業を中心とした生活にシフトするひとつの節目。再雇用でしばらくは会社員を続けるのだが、やはりここは新たな人生、ある意味終活ともなる人生の幕開けに、どうしてもこの瞑想行をやってみたかった。参加してみて、本当に良かったと思う。

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