岐阜城に登って

エッセイ

以前、岐阜城に登ってみて気がついた。

ここは信長が天下布武を発したところだ。

この山城の頂上にそびえる天守閣からの眺めは壮大だ。遠く伊勢湾から桑名、尾張から東には南アルプスがそびえ立ち、西の関ヶ原の向こうには琵琶湖が控え、京都も間近に思える。

那古野城から清洲城、小牧城から岐阜城へ。信長の緻密な戦略を考えると、美濃を落とし、岐阜から天下布武を発したのは、天下に王手をかけた実感があったのだろうと思える。

そして信長は岐阜城から見える範囲全てを手中に収めて行く。

この信長のバックにいたのが、イエズス会をはじめとするカトリックの勢力だ。ルイスフロイスから、さらに位の高い巡察使バリニャーノとの繋がりの中で、信長と密約があったのではないかと、作家の安部龍太郎氏は“信長街道”で述べている。

当時最先端の文明や武器を優先的に提供して信長に天下を取らせた後、信長に日本全土にカトリックの布教を認めさせ、さらにカトリックの侵入を許さなかった明に攻め入らせ、明を滅ぼすことで大陸への布教を手に入れることを画策していたのではないかということだ。

信長のやったことは、楽市楽座、その経済力をバックにした専業兵士などなど、ことごとく南蛮文明を手本にしているように感じる。

ただ当の信長には、明に戦を仕掛けて勝つ見込みはなかったようだ。バテレンを利用した後は密約を反故にしようとしたため、殺されたのではないかと安部氏は述べている。

そう考えると、明智光秀は、バテレンの傀儡と化そうとしていた信長に反旗を翻し、秀吉は信長に代わるバテレンの傀儡になる密約を交わすことで天下が取れたという推測が成り立つ。

秀吉は密約に基づき明侵攻の布石として朝鮮に攻め入ったのでは?ただ無理だと悟り、報復に対する恐れから、異常なまでのカトリックの弾圧に進んでいったのではないか?

伊達政宗は慶長に遣欧使節団を送ってバチカンと結ぼうとしている。だが途中で三浦按針を通じて新教勢力のオランダと結んだ家康に阻まれ、伊達政宗の野望は打ち砕かれている。

伊達政宗は徳川から天下を奪うためにキリシタン勢の力を借りようとしていたのか? 家康もそのような密約の存在を知っていたからこそ拡大するカトリックの野望を排除し、布教抜きで経済的な付き合いのできるオランダと結んだのだろう。

イエズス会は、勢いを増す新教勢力からカトリックの再起を図るために結成された布教集団だ。

歴史が動く背後には、必ず様々な物語があるはずで、いろいろ考えると興味は尽きない。

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