鹿児島県の西岸にあるいちき串木野市あたりをぶらっと旅をした。
薩摩藩英国留学生記念館に行った。
1865年に薩摩藩は19人の薩摩藩士を英国に送った。この話をするには、1862年に薩摩藩士が4人のイギリス人を殺傷した生麦事件に遡る。
生麦事件は、1862年神奈川県の生麦村で、上海の商売をたたみ、イギリスに帰郷途中のリチャードソンら4名の外国人が島津久光の大名行列に遭遇し、薩摩藩士から殺傷された事件だ。
馬に乗ったイギリス人4人はその時日本を観光していたようだ。生麦事件は、生麦村で島津久光の大名行列に出くわした4人の外国人が、いきなり薩摩藩士に切り捨てられたというイメージがあった。しかし、実際には薩摩藩士が道をよけるように何度も身振り手振りで示していたにも関わらず、言葉とその状況が理解できない彼らは下馬せずに行列を避けようとして、殿様の籠に近づいたために切られたというのが事の真相のようだ。
事件後、英国はこの事件の賠償金として幕府に現在の価値で40億円、薩摩藩に10億円を求めた。
幕府は賠償金を支払ったのだが、薩摩藩としては当時のしきたりから当然のことをしたまでと思っており、当然に賠償金の支払いをしなかった。これは相手が外国人であるかどうかに関わらず、殿様に無礼を働くものは切り捨てて当然という考えのもとに行われた行為なので、一切賠償するつもりはなかったのだそう。
業を煮やしたイギリスは1863年に艦隊を組んで鹿児島に向かう。鹿児島湾にて薩摩藩が所有していた洋式の船3隻を奪い、それを盾にイギリスは賠償金の支払いを要求。大砲を据えた薩摩藩の台場近くまでイギリス船はやって来て薩摩藩との交渉を開始。
イギリスは当初、この脅しで薩摩が賠償金を支払うものと思っており、戦争になるなど思ってもみなかったのだそうだ。
ところが、一切賠償金を支払うつもりのない薩摩は、近くにやってきたイギリス船に砲撃をくらわす。それで、船長はじめ数十人が死傷している。薩英戦争の始まりだ。
薩摩の大砲の射程距離はわずか1km、英国の大砲は射程4kmもあったのだそうだ。
英国船は桜島近くに陣取り、薩摩の市街地に砲撃。薩摩の大砲はイギリス船に届かず、イギリスの大砲は陸地に炸裂。薩摩の市街地や集成館が焼け、甚大な被害となった。
薩英戦争も薩摩が一方的にやられたようなイメージがあるが、実際には薩摩も善戦しており、イギリスが薩摩に一目を置く要因になったのだそうだ。
この戦争では五代友厚が捕虜になる。集成館が焼き払われたのは五代がイギリス人に集成館の位置を教えたのではないかと疑われて薩摩に帰ることもできず、横浜で解放された後、五代は長崎のグラバーの元に身を寄せる。
この薩英戦争で技術力の違いを認識した五代は、長崎から薩摩藩士をイギリスに留学ように働きかける。これを島津久光が了解し、薩摩藩英国留生の話は動きだした。
ということで、1865年、19名の薩摩藩士はこの博物館がある羽島に2か月ほど滞在した後、グラバーを通じて密か用意された船に乗り込み一路英国へと向かった。
香港からは一般の客船に乗り換えての旅となったのだそう。スエズ運河はまだ工事中で通れなかったので、一度上陸し列車でエーゲ海に向かったのだそうだ。
当時は海外渡航ご禁制だったため、各人への辞令では羽島からほど近い甑島への赴任命令になっている。イギリスへの留学など、当人たちの家族ですら知らなかったのだそうだ。隠密裏に事は進められている。
一行の中には、五代友厚など外交の役目で来ていた4名以外の15名がイギリスの地で主に軍事技術を中心に学ぶこととなった。その中には、政治家・教育者として有名な森有礼などが名を連ねている。
年齢的にはかなりバラバラで、最年少は13歳の長澤鼎だ。この人の人生はとても面白い。
他の生徒がロンドン大学に進学して学んだのに対し、長澤だけは年少のため大学に行けず、ひとりスコットランドにあるグラバーの実家に身を寄せ学問に励んだのだそうだ。
わずか13歳で留学メンバーに選ばれ、わざわざグラバーの実家に引き取られていることを考えると、長澤は相当優秀な子供だったのだろう。けんかも強く文武両道の人だったようだ。
その後、幕末維新の混乱で薩摩からの留学費用が厳しくなり送金が途切れたため、長澤や森らはアメリカに渡ることになる。
彼らを招いてくれた人が信仰するキリスト教の信仰団体に身を置き共同生活をすることになった。しかし、長澤以外の留学生はその思想に疑問をおぼえ日本に帰国。長澤だけがその教団に残り学びと労働の日々を送ることになった。その中でワインの醸造を学ぶ。
教団がカリフォルニアに移ったのを機に長澤はカリフォルニアに移る。後に教団のワイン醸造所を購入することになる。
当時カリフォルニアでは既にワインを造っていたが、地域で流通する程度のものだったらしい。長澤はその後、ブドウから醸造方法まで徹底的に研究をし、次第に質の高いワインを産出するようになる。フランスのワイン品評会でも高い評価が得られるようなワインの産地に育っていった。
長澤は終生日本国籍を捨てず、常に日本人であることを誇りに思っていたようだ。生涯をカリフォルニアの地で過ごすことになっても、長澤は最後まで日本人だった。カリフォルニアがワインの産地として有名になった陰に、長澤の多大なる功績がある。長澤がカリフォルニアのワイン王と言われる所以だ。
この薩摩藩英国留学生記念館では、スタッフが館内を案内してくれる。ここに書いた話は、ほとんどここのスタッフが話してくれたことだ。小さな博物館だったが、ガイドしてくれた若いスタッフの知識の豊富さに、とても有意義なひと時を過ごすことができた。とても楽しい博物館訪問となった。
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