佐賀県の北部、玄界灘に面する唐津市の象徴的存在として満島山上に聳え立つ天守閣が美しい。唐津城は1608年、豊臣秀吉の家臣寺沢広高により築城されている。この天守閣に登ると、眼下に玄界灘が広がっており、城の左右にある長い砂浜が翼のように伸びていることから、別名舞鶴城と呼ばれている。
この寺沢広高は、文禄・慶長の役の際、唐津市中心部から車で30分ほどのイカで有名な呼子にある名護屋城を朝鮮出兵の拠点とするよう秀吉に進言している。名護屋城はとても大きな城で、現在は石垣しか残っていないが、この城を中心に130を超える大名たちが陣を敷き、20万もの兵らが集結していた。いたるところに超有名武将たちの陣あとを示す案内板等があり、本当にその凄まじさを感じることができる。
そんなこんなで、功のあった寺沢広高は、長崎奉行に出世。関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川家康によりこの唐津の初代藩主に任命されている。また、この唐津の地だけでなく、唐津から離れた天草も飛び地として知行される。
天草・島原の乱が起こったのは、2代藩主の寺沢堅高のときだが、その伏線は広高の時代にある。
寺沢広高が天草を知行した時に、天草は実際の石高の倍の石高としたため、天草の農民はこれ以降、重税に苦しむことになる。天草・島原の乱は、その主力がキリシタンだったため、キリシタンの宗教一揆としてとらえられているが、実際には重税による農民の生活苦も大きな要因となっている。また、天草の付け根にある宇土を治めていた小西行長の遺臣、改易された肥後の加藤家の遺臣等も土着しており、一揆勢の戦闘部隊の中心となった。
さらに寺沢広高は、1614年の禁教令以降、天草のキリシタン弾圧を強めている。かなり苛烈な拷問等も行われていたらしく、民の我慢は限界にきていたのだろう。広高自身も以前はキリシタンだった。ただ、この初代藩主は、秀吉治世の終わり頃には棄教している。
2代藩主堅高は、先代に続き厳しいキリシタン弾圧を行った。結局この後に天草・島原の乱が発生し、堅高はその責任を問われて天草を没収されることになる。堅高はこの数年後自殺し、寺沢家は断絶した。
唐津藩はその後大久保、松平、土井、小笠原と藩主が入れ替わり、明治を迎えることになる。
唐津は、唐津城以外にも、5km近く伸びる虹の松原、唐津くんちの曳山展示館、唐津焼など見るべきものも多いとても美しい街だ。郊外に足を伸ばすと、呼子のイカは透明で新鮮。本当に美味しい。イカを食べるために多くの観光客が呼子を訪れている。
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