天草島原の乱の主戦場となった原城。その城跡は、後方が有明海に張り出した思ったよりも大きな城砦だった。城壁の総延長は4kmもあるそうだ。しかし、天草島原の乱の後、この城は一揆軍の多くの亡骸とともに土が盛られ、あたかも何事もなかったかのように封印されてしまっている。発掘作業は今も続けられており、城跡というより遺跡といった風情をかもし出している。
天草島原の乱。天草四郎時貞に率いられたキリシタンと幕府軍との争いとして知られている戦いだ。しかし、その実態は重税で生活が立ち行かなくなった農民と、小西行長、佐々成政、加藤忠広の改易に伴い行き場を失った多くの浪人の反乱だったようだ。この地に住む人の多くがキリシタンだったため、キリシタンの反乱として多くの人に認識されることになっている。
この城のボランティアガイドの方がいろいろと教えてくれた。原城に立て篭もった3万7千人の一揆軍のうち、戦闘員はわずかに1万人程度だったようだ。あとは女性、老人、子供、病人などだったらしい。この1万人の中でも多くは農民で、刀ではなく竹槍を武器に戦ったそうだ。これに対して幕府軍は、一回目は失敗しているが、2回目の攻撃では13万の兵力でこれにあたっている。原城に行ってみて、城壁の高さがそれほど高くないのが気になった。多勢に無勢で戦闘が起こったとき、この城壁の高さではとてもではないが防御が難しいと思った。
それに一揆軍の副将山田右衛門はキリシタンだが、元々藩おかかえの絵師で、完全に幕府軍と通じていた。後にそれが明らかになり、乱の最中は牢屋に入れられていたようで、それが幸いして、この乱を通じて只ひとり生き延びている。山田からの情報と忍者を放つことで、篭城している一揆軍の食糧が尽きていることを幕府軍は把握している。最後は、完全に袋のねずみとなった一揆軍は幕府軍の攻撃に耐えられず、天草四郎は自害、そして3万7千人の一揆軍は女子供まですべて捕らえられて処刑され、完全に根絶やしにされてしまっている。皆殺しの末、幹部の首は大手門に晒された。四郎などの首はさらに長崎に運ばれ晒し首にされている。
今も原城の発掘現場からは、数多くの骨が見つかるのだが、多くが首がないそうだ。そして多くの骨に特徴的なのが、足の骨に創傷があり、槍か刀で足を突かれて動けなくなったところを滅多切りにされて殺されているような形跡があるということだった。
彼らは生きていくことができうないほどの重税を島原藩主松倉勝家(天草は藩主寺沢氏)に課せられ、どうしようもなくて反乱を起こしたというのが真相なのだが、本当に哀れな最後だと思う。
しかし、ありえないことだが、貧窮し追い詰められた一揆軍と、当時城攻めを行った幕府軍の兵士同士が酒を酌み交わし、人間と人間として言葉を交わしたら、心が通じあったこともあっただろうに。どちらも権力に翻弄されていることに於いては大差ないのだから。
しかし、正義を振りかざし競争原理を働かせることで、攻略する側は競って殺戮を行い、首級を上げることに盲目になる。後の時代から見ると、他に解決方法はいろいろとあるように思うのだが・・・。ただ、徹底的な弾圧からは、キリシタン勢力、その背後にいる南蛮勢に対する当時の計り知れない警戒感を垣間見ることができる。
原城にて、いろいろと思うところがあった。
最後に、一揆軍を売った山田右衛門は生き延び、その後幕府がキリシタン弾圧を強める中で、関東のキリシタンを取り締まる役目を仰せつかったそうだ。本人もキリシタンだから、内心どのようなものだっただろうか・・・。お役目終了後宮崎に移った後の消息はわかっていないらしい。一説によると、東南アジアに渡り、再びキリスト教徒として悔い改めたという話もあるようだ。彼もまた歴史に翻弄されたのかも知れない。
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