テレビのワイドショー、文春砲などの雑誌記事、SNSでも次から次へと人の目をひく事件が取りざたされては消えていく。これらの番組や雑誌などを商業的に成功させるためには、次から次へと話題性のある話や事件が必要なのだろう。人々の感情を刺激し、攻撃する標的をつくることで、不満を抱える大衆の要求を満たしているように思える。
江戸時代、厳格な身分制度をつくりあげることで幕府の安泰を図ったことと、現在のマスコミがひっきりなしに垂れ流す“標的”に、大衆の不満を誘導することと、どこか共通点があるように感じる。当然その“主体”は、今、江戸幕府ではないのだが。
ここ数十年にわたり、日本人の中で経済格差は広がり、1億総中流などと言っていた昭和から世の中は大きく変質した。勝ち組、負け組という言葉で世の中を分断し、お金をたくさん稼ぐ人間が世の中で称賛される。今の価値観は、あまりにもお金が基準になっている。
お金を稼ぐということは、動物の世界で言えばより多くの餌と取ってくることに置き換えられる。より多くの餌をしとめ、栄養が行きわたった動物は体も丈夫になり、子孫を残す可能性も当然に大きくなる。そのため、しとめた獲物を様々な動物が奪いあう。血みどろの戦いも辞さないのが動物の世界だ。
人間も動物なので、同じようなものではある。ただ、社会を築き、その中で生きていくために倫理観や道徳心を育んできたのが人間社会だ。そこでは、お金の稼ぎ方にも倫理的な基準が重視されてきた。手段を選ばないお金の亡者は、社会で評価されることはなかった。
当然、今でもその手段については厳しい目が向けられる。だが、勝ち組、負け組などとレッテルを貼るほど、社会はお金を価値判断の基準にしてしまっているのではないかと思う。オレオレ詐欺にしても、闇バイトにしても、まさに動物のごとく、お金を持っている弱い年寄りを獲物にしている。昔からこの手の犯罪や、人間はいたのだろうが、人間社会を築いてきた叡智が崩壊するのを垣間見るような気がしてならない。さらに、人間が、動物的に獲得する“餌”のために起こす行動の最たるものが戦争だ。そこには正義というロジックで大義名分がつくられるが、結局は利害が底辺にある。
昔が良かったわけでもなし、今が良いわけでもない。人間社会とはこんなものなのだろうが、アメリカ化しきったこのような現在の社会の評価基準が、人生をどれほどつまらないものにしているか。何でも損得で判断する“欲”の底なし沼状態に置かれた社会基準が人生を豊かにすることはないように思う。
今年も暑い夏が続いているが、お盆を過ぎ、少しずつ風が涼しくなってきているように思う。田舎の自然の中で、そのような夜の風にあたり、草の匂いや、微妙な雨を予感させる空気を肌で感じていると、それだけで幸せな気分になることがある。それも良い意味で動物的な人間の本能なのだろうと思う。
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